9.11

同時多発テロ事件、この事件は分かりにくい構造を持っていると思う。
アルカイダによる行為という見方もあるし、アメリカの自作自演という声もある。
アルカイダによる行為だとしても、単純にテロ行為として切り捨ててよいものか。
アメリカに蹂躙された国の人達の抵抗闘争だったかもしれない。

自分にとって分かりにくいのは、抵抗闘争「だったかもしれない」、としか言えないところだ。

チェチェン紛争の場合はその辺の構図が分かりやすく、「大国のエゴ」と「少数民族の抵抗闘争」というのが明確に対峙していると思う。


しかし9.11同時多発テロ事件、その後のアフガニスタン侵略、イラク「戦争」というのは、全て不気味に不透明に僕には見える。


「戦争反対」という言葉も複雑に大きな仕組みの中で消費されていくしかないような・・・



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イラクにボランティアに行った日本人の青年が、イラク武装闘争グループに捕まり、首を刎ねられ死んだ。その「処刑」の映像がインターネットでばら撒かれた。ウチの会社で、先輩が仕事中にその映像を見て「気持ちわる〜」と言っていた。(俺は見てないけど)

多分青年がイラクに行くきっかけはテレビの映像だったんだろう。そして彼の首はネット上を転がって消費された。


その青年には大変申し訳ないが、その死に何の意味があるのだろう?俺の死だって何の意味もないだろうが、少なくともネットでさらし首になって死にたくはないと思う。


その青年の死を称えた初老のジャーナリストは、確かその後イラクに出向いてすぐ死んだと思う。


そういう死の消費の仕方が気持ち悪かった、というのもあって、その頃からほとんどテレビを見なくなった。


なるべく腰をすえて物事に取り組みたいとは思う。きっかけはテレビかもしれないが、僕の場合ずーっとチェチェンのことが気になっている。チェチェン語を勉強しようと思っていたが世界で100万人ぐらいしか話す人がいないらしい(チェチェン語を喋ってたらロシア人に殺されるからだ)。だから日本にチェチェン語会話学校なんてないみたいなんだよな。でも喋る人が少ないから無視されるというのは明らかに文化的差別だと思うけどな。