郊外!

土曜日。午前中に駒沢公園へ出かける。


公園に着いてまず目につくのはジョガーの多さである。 ジョギングに没頭する人々が発する「タッタッタッタッ・・・・」という駆け足の音が通り過ぎては追いかけ、ミニマルに重なり合い、それが偏執狂的な健康志向のサウンドのようにも聞こえ、なんだか僕は少し不気味にも感じる。


クリーンに整備された郊外の公園の中に存在するスケートセクションは、行政側から与えられ運営されているものではなく、ローカルスケーター達によって自主的に管理されている。
キッズスケーター達が練習に通っているらしく、ローカルのお兄さん達はフレンドリーに一緒に滑って教えてあげている。キッズスケーターのお母さんが迎えに来て、ローカルのお兄さんに「ありがとうございます」と挨拶している姿も目についた。


ランプが全然出来ない僕は、ミニミニランプで初歩の練習。自分的にはそれなりの上達が実感できたので嬉しかった。(翌日腕と胸がすごい筋肉痛に。ランプは上半身の筋肉使うんだなぁ、と、まさに「痛感」。)


その後渋谷のサウナで汗を流し、下北沢の「路上解放戦線」へ。
http://www.kiryuusha.com/rts/


木村和穂さんがバルセロナでおこなわれたKRAXというイベントに参加した模様を、プロジェクターを使って駅前の路上で報告。KRAXは都市再開発による問題を世界各国の団体が取り組み、アイデアを交換しあうという国際会議。そして現在行われている下北沢の再開発問題に対して、なにができるのだろうということを話し合う。


バルセロナのKRAXでは大きな球をみんなで押して道路で転がす、というデモが行われていて、その写真がプロジェクターで映し出されたりしたんだけど、ばっちりスケートボーダーの姿も映ってましたな。だって、バルセロナだもの。


その他、かつてハンセン病の患者のために使われていてその後廃墟状態になった病棟を、都市部で生活できなくった人々が移り住むようになった話など。まずは行動を起こしてその存在を社会的に認めさせていく過程が興味深かった。


下北沢の再開発問題に関しては、覆すのは難しい状況にあると思うのだけど、当日の主催者が話していた通り自分達になにができるのかということを話し合うことがまず大事なのだろう。路上で。実践的に。




この再開発問題に関連して、最近「東京から考える」という本を読んだので感想を。
http://www.amazon.co.jp/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%81%8B%E3%82%89%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B%E2%80%95%E6%A0%BC%E5%B7%AE%E3%83%BB%E9%83%8A%E5%A4%96%E3%83%BB%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0-%E6%9D%B1-%E6%B5%A9%E7%B4%80/dp/4140910747


著者の東浩紀北田暁大は、エリアごとに消費動向・文化度・巨大資本の戦略・住民所得の差・著者の体験など様々な見解を通して現在の変わりゆく東京の姿について興味深い発言を述べている。


すごく簡単に結論を言うと現在の東京はジャスコ・ツタヤ(プラス・ユニクロ?)的な郊外化の波には抗えないだろう、ということだと思う。


例えば六本木ヒルズに住む人達、通う人達の文化水準が決して高いわけではなく、コンビニ・ファミレス・百均など郊外的なマーケットに親和的である。ドンキホーテはあの土地にしっかりと根付いている。

山谷地区には日雇労働者がいて東京西部の街とは趣きの異なる風景はあるが、都市の構造的にはそれほど変わらず、ちゃんとコンビニもファミレスもある。絵に描いたような記号的ドヤ街を見つけるのは難しい。

また、90年代後半の秋葉原のように、ある特定の趣味の共同体しか受けつけない「個性ある街」も、秋葉原クロスフィールドヨドバシカメラの建設により変質している。


東浩紀は、街の個性が失われることについて、商業主義や法規制というより、むしろポストモダン社会の倫理に起因している、と考える。ポストモダン社会は多様な人間集団の共生を公準としており、街には老人も子供も来られるものでなくてはならない。
そうすると、やはり清潔で安全な「人間工学的に正しい」街にならざるえない。 つまり、それはバリアフリーやセキュリティーの問題になるが、それを考えていくと個性ある都市風景は難しくなっていく、と。


下北沢で現在行われている再開発の問題にしても、市場主義的な政策だけではなく、以上のようなバリアフリー・セキュリティーの論理も絡んでおり、それが街の郊外化をあらわす重要なキーワードにもなっていると思う。


バリアフリー・セキュリティーについては確かに考えないといけないものなんだけど、いつものようにトップダウンで開発してしまうのではなく、そこの街に住んでいる人達、通っている人達の視点から自発的に改善していくという方法はありえないものなんだろうか。街の個性を活かしつつ解決できるような方法で、街ごとの多様性を模索するという在り方が。


この本における東浩紀の発言がひょっとしたら反動的に捉えられることがあるのかもしれないのだけど、多分それは自己批判的意味合いが強いのだと思う。例えば、「ポストモダン公準に照らすとオタクたちがひとつの街を占有していいわけがない」「(筆者は)この『東京という巨大な郊外』の便利で殺伐とした動物的な生を愛し、肯定する立場である」「(ノスタルジーで都市開発に反対する(住民でもない)人達に対して)住人として不気味さを感じるんですよ。なぜなら、それはリアルな街を一種のテーマパークにしてしまえという主張だからです」など。 東浩紀は昔アニメオタクで、自身が完結した閉じた世界にいて、そしてそういう自分を現在は反省しているからこそこういう発言が出てくるのだと思う(エヴァンゲリオン的な自己批判?)。僕は思わず笑いながら読んでしまったけど。だって、アニメオタクの閉じた世界は時に相当なストレスがあるものだと思うし(さらに現代思想サブカルチャーのオタクでもあるし)、そこで大変な思いをしてきたんだろうなー、そこからふっきれて郊外的なもの(ヤンキー的アンタイ・カルチャーな生活)を肯定する気持ちも分からないでもない、と。


ジャスコ的郊外化(ファスト風土化)に抗いうる都市としてあげられているのが、東浩紀が育った街「青葉台」である。

住人以外の来訪者が多くなく、「人の流動性を高めるようなことはない」「舞台として固有の物語性を持っていなくてはならない」という幻想を共同的・人為的・意識的に再生産し続けるような街。

映画「トゥルーマンショー」のような生粋のシミュラークル的郊外が唯一ファスト風土化を免れるなんて、ちょっと息がつまるような展望ではある。(街の在り方や東武資本の戦略を客観的に考える上では非常に興味深い街ではあるが。トゥルーマンショーも好きだし。ただ実際住むとなるとキツイなぁ。)




日記の最初に戻るが、駒沢公園周囲の地域も結構シミュラークル的な郊外のように思われ、その中で主体的な空間を創出しているスケーター達に可能性のようなものを感じずにはいられない。彼等は「まずは行動を起こしてその存在を社会的に認めさせていく」ということを実践していると思う。