村上春樹 1Q84 BOOK2読了

http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn0804/sin_k405.html

読んでいて、大澤真幸の『不可能性の時代』を思い出したりしていた。
大澤は戦後の日本の精神史を、戦後から1970年までを「理想の時代」、1970年から1995年を「虚構の時代」、1995年から現在までを「不可能性の時代」と区切り、「虚構の時代」を代表する小説家として村上春樹を挙げていた。

1Q84」はオウム真理教事件も着想の一つとなっているわけだが、『不可能性の時代』でも1995年に起こった一連のオウム真理教事件を「虚構の時代」の限界・終焉として位置づけている。
1984年という近い過去を1Q84という仮想的な過去として想像し、そこから現代に通用する物語を創り上げた本作は、「「虚構の時代」を代表する小説家」ならではの総括的意味合いの濃い作品なのではないだろうか、と思ったりしたのだ。

まぁ、なによりも、「物語」の必然性と力強さをこの作品から感じ取られたので僕は満足している。


下のリンクにおけるインタビューで興味深い言葉があったので勝手に引用を。
http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20090616bk02.htm
世界中がカオス化する中で、シンプルな原理主義は確実に力を増している。こんな複雑な状況にあって、自分の頭で物を考えるのはエネルギーが要るから、たいていの人は出来合いの即席言語を借りて自分で考えた気になり、単純化されたぶん、どうしても原理主義に結びつきやすくなる。スナック菓子同様、すぐエネルギーになるが体に良いとはいえない。自力で精神性を高める作業が難しい時代だ。

作家の役割とは、原理主義やある種の神話性に対抗する物語を立ち上げていくことだと考えている。「物語」は残る。それがよい物語であり、しかるべき心の中に落ち着けば。例えば「壁と卵」の話をいくら感動的と言われても、そういう生(なま)のメッセージはいずれ消費され力は低下するだろう。しかし物語というのは丸ごと人の心に入る。即効性はないが時間に耐え、時と共に育つ可能性さえある。インターネットで「意見」があふれ返っている時代だからこそ、「物語」は余計に力を持たなくてはならない。
(引用以上)


個人的には、物語を、人生を、事象を、読むこと、それ自体が大事なのでは。そんなことを考えたりしている。

大澤の『不可能性の時代』における村上春樹に関する言説は以下ブログでまとめられていたので誠に勝手ながらリンクさせて頂きます。
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090304#p3