椎名麟三 「神の道化師 媒酌人」

h-shark2009-04-13

恥ずかしながら椎名麟三の作品初めて読みました。
何故僕が氏の作品を読んでみようと思ったのかといえば、「ドストエフスキー 笑い」とかそんなキーワードでインターネット検索していたら氏の名前にヒットした、というだけのきっかけでした。
そうしてネットで探していた内に見つけた以下ページの文章は、特に興味深く思えました。
http://www.k-doumei.or.jp/np/2004_12/2-2f.htm
(あと、昔友人と「ドス 笑い」ということで会話をしたとき、友人から氏のことを勧められたような気がしたというのもあるのだが。。。別人だったらまた探さないと。。。)


元々共産主義者で戦中は拷問による死の恐怖に絶えながら活動を続けていたが、昭和二十五年にドストエフスキー体験を契機にキリスト教へ回心。本作は回心後の作品群であるらしい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8E%E5%90%8D%E9%BA%9F%E4%B8%89


そういう著者の略歴を知ると、何か重々しい内容の作品を書いているのではないか、という気もするかもしれないが、実際に作品を読むとそんなことはなくて、例えば拷問のテーマとかもあったりするのだが、不思議と淀みなく読めてしまう。それは、どんなに重い事柄であろうとユーモアの雰囲気が底辺に流れているからのような気がする。


平凡な日常に生きる人が淡々と混乱の中に引き込まれて途方に暮れてしまうような作品、門のある家、媒酌人、などは大変面白く読めた。
その混乱に対する歩の進め具合に、個人的には黒沢清の映画を思い出したりした。


井口時男氏のあとがきに興味深いことが書いてあったので、メモ的にここに抜粋させていただきたいと思う。


フロイトはユーモアというものを、大人が子供に対する態度になぞらえている。子供にとっては重大な利害や苦しみも、ほんとうはたいした問題ではないことを大人は知っている。
そこで大人が、おびえている子供に、「たいしたことではないよ」と微笑しながら教えてやる。そのとき、子供の緊張はほどけ、こわばりはゆるめられる。その快感がユーモアの快感だというのである。(なお、念のために言い添えるが、「こわばり」とか「ゆるめる」とかは椎名麟三用語である。)
フロイトによれば、自我は子供のようなものであり、超自我は大人のようなものである(超自我は社会の法や掟が内面化されたものだ)。だから、一人の人間が自分自身に対してユーモア的な精神態度をとるとき、自我が超自我の立場に移行して自分自身から距離をとり、そのこわばりをゆるめてやっているのだ。フロイトの挙げる罪人も、椎名が書き留めた死刑囚や留置人たちもユーモアによって死という絶対者を無力化しようとしている。



簡潔に自分なりにこれを解釈させてもらうと、ユーモアとは現実に対する批評行為である、ということではないかと思う。そしてこれを僕の好きなスケートボーディングと関連させてみると、スケートボーディングは都市生活、現代社会に対する批評行為であるし、ユーモア的行為なのだろう、と思っている。さらにいえば、椎名麟三ドストエフスキーは非常にスケートボーディング的作家ではないですか、スケーター諸君。
(無茶書いてるのは分かるけど、たまにはこういう飛躍的書き方を許してくれよ。)