フレデリック・ワイズマン「聴覚障害」 Frederick Wiseman - DEAF

1986年 アメリカ 164分
アテネフランセで観る。



アラバマ聾学校の日常を記録した作品。授業、校内の風景、教師同士の会話、社会見学、スポーツ、カウンセリング、家族との面談、学校運営予算の会議、ある黒人成功者の講演など、聾学校を通して行われる様々なことを映し出す。


先ず、イントロで映し出される学校に行き着くまでのアラバマ郊外の風景がかっこいい。色んな風景を定点撮影で切り取り、繋ぎあわせているのだが、一つ一つの画の構図がクール。これで僕はすっかり作品の世界に入り込めた。


全くカメラを意識させないように感じさせる、被写体との距離感も気持ちが良く、障害者を題材にした映画にありがちな教条主義的なものは皆無だ。被写体と同じように観客もほったらかしにするような撮り方に、ある意味男らしいというか、爽快なものを感じる。


恐らくワイズマンは被写体に注文をつけるような野暮なことはしないと思う。またドラマチックな画が欲しくて、何テイクも撮ったりしないだろう。彼は空気のように現場に溶け込み、流れる模様を切り取る役割に徹しているように思える。


しかし、素行に問題がある男の子が、母親とカウンセラー、校長を交えて話し合う長いワンシーンなどは、その会話の内容や被写体達の表情や動きにひきつけられるように、充分にドラマティックな画に仕上がっている。なんでこの人たちは素人なのに、こんなに話や表情がうまいのだろう、と思わせる。彼らはただ切実な問題を対処しようとしているだけなのだが。


一方、若干の皮肉を込めて挿入されるのが、あるテレビ局が聾学校バスケットボール部を取材にきたシーンだ。彼らは良い画を撮ろうと、何度も選手たちに同じことをやらせる。アナウンサーは自分の身振りが不恰好だった、と撮り直しを命じる。「Sorry」の一言も言わずに。そういう恥知らずな態度とは対照的に、ワイズマンの映画の撮り方はなんと自分をわきまえていることかと思う。


単純に、ワイズマンが「良い人」だ、と言いたいわけではなく、映画を撮る職人として徹しているところが素晴らしいなと思うだけである。実際彼が撮っている題材はディープで、被写体達が映画が終わった後も悩み続けるであろうことも、フィルムにきっちり収める。つまりは一度被写体の「了解」を得れば、被写体のありのままの姿をそのまま撮ってしまう。蓮實重彦はこのような氏の撮影を「極道」といって賞賛しているのだが(蓮實重彦も「極道」を自称していますが)。極道の側からすればテレビのドキュメンタリーなんて不埒なチンピラまがいのものなのだろう。


マイケル・ムーアのドキュメンタリーなんかとは正反対のものかも、と思う。例えば、ワイズマンもムーアも「アメリカ」が大きな題材になっていると思うが、大統領や話題のニュースなどアメリカに纏わる大きな視点から最終的には自分の話に帰結するマイケル・ムーアとは対照的に、ワイズマンの場合は身近な風景・人物からアメリカ全体の姿を映し出しているように思う。ムーアがアメリカの外から内へ向かっているのに対し、ワイズマンは内から外へ向かっているような。単純すぎる比較だろうか。


ワイズマンの映画から感じた独特のアメリカ観に関していえば、矛盾があるが色んな意味で魅力的なアメリカという国に対して、最終的には外から眺めているような冷ややかさを持ったものになっていると思う。そして、そこは写真家のウイリアム・エグルストンに通じるかな、と思うのだが、ワイズマン、エグルストンの両者を敬愛しているガス・ヴァン・サントにもそういうテイストはやはり受け継がれているんだなぁ、と改めて感じたりしました。特にガスの「エレファント」における校内の撮り方、構図はかなりワイズマンの影響が濃厚なのではないでしょうか。